ハッキリしない人

 ハッキリしない人が周りによくいる。

 そもそも、元々の性格なのか、何かカウンセリングが必要な状態なのか、そういうことすらよく分からないような人たち。

 

 例えば、「薄情者」と言ってもいくつか種類による。

 一つは性格的な問題。他人に無関心であったりする人を指す。「特段悩みとかはないけど、なんとなく昔から人には興味ないし、最低限付き合えてればそれでいい」みたいなタイプ。人間関係をドライにコスパ良く割り切っているが故の考え。そもそも直る直らないの話ではない。

 

 もう一つは、明らかにカウンセリングが必要なタイプ。こちらは性格というより一時的な精神状態としての薄情。「いの一番に自分が認められたい」「自分が困ってるからなかなか人に優しくできない」みたいな欲求を常日頃から抱えているタイプ。こちらのタイプは正直プロのカウンセリングなり自己啓発本の読書なりでもやれば改善の見込みがある。薄情であることがフェイクであり、もしかしたら案外情に厚い思いやりに溢れたタイプだというような、そういう知見を得られる。

 

 同じ「薄情者だな」という印象を抱いたとしても、上記2つのどちらかに当てはまるかというだけで対処法が全く違ってくる。前者はそもそもそういうアイデンティティとして理解すればよく、故に期待する必要もない。ただ、後者の場合は「治療すれば改善する」という意味では、表面上に出ている態度はある種の「仮象」であり、その覆いを取ったより本質的なアイデンティティが隠れている。

 

 なので、これが一体どちらのタイプとしてそのような言動をしているのかが分からなければ上手く対処できなくなる。一概に「人に期待しすぎだよ」と言われても、彼ら彼女らに対し期待しないことの「妥当性」や抱くべき期待値の「程度」がハッキリとしないため、どこに重心を置けばいいのかが分からなくなる。

 

 こういうストレスが起きうる理由はただ一つ。本人が自分で自分のことをよく分かっていない、もしくは分かろうとしていないこと。

 

 もちろん、ただでさえ「薄情者」などという印象をこちらに与えてくるぐらいなので、当然自己肯定感は低いだろうし、自意識過剰で自己嫌悪に陥りやすい。そういう人間がある種の”処世術”として他人への無関心と無責任を貫こうとするのは当然のことではあるけれども。

 

 ただ、そういう態度のせいで他の人間に悪影響を及ぼし、結果的に自分自身とのコミュニケーションにおいても齟齬が増え、自分自身まで損している。それについて鈍感あるいは鈍感を演じ切るというのは理解しがたい態度。

 

 傷つきたくない。そんなもの、誰だって同じ。本来ならば、「故に、自分が人を傷つけることにも注意しよう」となるのが人間だと考えている。しかし、そのような「人にストレスを与え得る存在としての自分」にはとことん目を瞑ろうと努力してしまう人間が多い(無自覚であっても)。

 

 もちろん、本人から言わせれば、「ただでさえ自分のことで精いっぱいなのだから、そもそも更なる本質的な自分だの、自己啓発を通じた自分磨きだの、いわゆる”期待”というものをかけないでほしい」というところが本音なのかもしれない。実際にそういう人間が近くにいた。そういう発言をよく聞いていた。

 

 しかし、個人的にそのような考えは甘えだと思う。人様に期待されるということはナイフのようなもの。凶器のように危険ではあるが、同時に、手際のよい料理をする道具のように物事を推し進める有効な手段でもある。他者からの期待値が確保できる環境というのは、紛れもなく他者の主体的な承認が必要である。自分一人で出来る代物ではないため、これはこれで大切にすべきなのではないか。むしろ、仕事等で結果を出したい(承認欲求が強いタイプでもあるためよくそういう発言をする)のであれば、なおさら人から期待を掛けられて文句を言うのは筋違い。

 

 結局、後者のタイプに至っては自分が努力して直せる範囲の話(本人にその自覚と根性がないから困るのだが)をいつまでも人の責任にすり替えてきた結果があのような言動に繋がる。

 そのような未熟さを正当化され、「結局何がしたいのか」という部分が理解できず振り回されるしか術がなかったこちらの”機会費用”は誰が回収してくれるのか。

 

 ハッキリするということは決して西洋人的な強さを要求するものではない。国民性に関係なく、自分にも他人にも余計な被害を出さないための最低限のマナー。それを「強者の論理だ」などと都合のいいように解釈してくる人間が多かったので、このような人間に対してはまさにハッキリと「No」を突き付けていきたいと思う。